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友達と話していると、世間に流されない私が羨ましいという。
私は、逆に、世間に流される友達が羨ましい。
別に皮肉でも何でもなく、本心で。

こだわって生きている、とか、何となく聞こえはいいんですけどね。
我が道をいく、というのは、単にナルっぽく美化された言い方であって、
現実は”自分に”流されている、ということだと思います。

世間に流されることと自分に流されること。
害が大きいのは、圧倒的に自分に流されること。
世間に流されている自分を自覚し、それに抗うことはできても、
自分に流されている自分を自覚し、それに抗うことは不可能に近いからです。

複数の人間と複数の人間の間にあるのが世間で、
人と人の間にあるのが人間であるとすれば、
世間の流れに身を任せる人間というのは至極正しいあり方だと、私は思います。
何とも人間らしい。
そこから生まれるものというのは、世間という流れる存在の中で、
その人が生み出したもので、何とも価値のありそうなものです。
なぜなら、その時の”世間”と、”その人”がいなければ存在しないものだから。

しかし、自分のこだわりの中で生み出されたもの、というのは、
その人のちっぽけな人間の中で偶然探り出されたものであり、
その価値ですら、その人の存在以上にはなりません。

天才のみが許される世界だと思います。
ただし、自分が天才であるかどうかは生き抜いてみないと分からないし、
第一その価値は世間が決めるものですから、
結局、人間が社会的動物である以上、世間からは逃れられません。

じゃあ、(結果的にですが)天賦の才能を持たないものが、
こだわりを持って生きていくとはどういうことか。
それは、単に世間から逃げているだけじゃないかと。
流されてどうなってしまうのか分からない未来に、怯えているだけ。

自分に流されている人間は、世間に流される余裕がありません。
そこから抜け出す術すら知らない。
だから、世間を自由に流れ、そこから色々なものを吸収する友達が、とても羨ましいのです。
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